2014年12月11日木曜日

新制度が適用されるケース

夫がアメリカ駐在員となり、妻の私も行くことになりました。こうした場合、妻の年金加入はどうなりますか。夫が日本の本社から海外駐在となり、給料は日本の会社から支払われているときは、夫は厚生年金加入をつづけ、妻も夫の被扶養配偶者として、国民年金に強制加入です。それまでと同じく、保険料を払う必要はありません。夫が海外の関連会社などに勤務し、その国の年金制度に加入するときは、妻は国民年金に任意加入できます。

夫が海外でどの年金にも加入しないときも、夫、妻とも任意加入できます。この場合は保険料を払わねばなりません。日本に親、兄弟姉妹など協力者がいれば頼み、役所で任意加入の手続きをし、保険料を代わって支払う人を届け出ます。協力者がいないときは、日本国民年金協会が代行してくれます。海外からの送金、海外からの加入手続きも、協会を通じてできます。

基礎年金制度が設けられたのは一九八六(昭和六ニ年四月一日であるから、この日に六〇歳未満の人年四月二日以後に生まれた人が老齢基礎年金を受けることになる。この日以前に生まれた人は、旧制度の国民年金を受ける。老齢基礎年金は国民すべての年金といっても、これを受けるには、①原則として六五歳になっており、②少なくとも二五年加入していることが必要である。この二五年については特別な扱いがあり、次の期間が二五年にふくまれる。

国民年金に保険料を払った期間。なお厚生年金の加入期間で一九六一(昭和三八)年四月一日から一九八六年三月三十一日の期間は、国民年金の加入期間とみなされる。国民年金の保険料を免除された期間。国民年金に任意加入できるが、しなかった期間。その期間の年金はもらえないが、資格期間をみるのに使えるので「カラ期間」といい、次の期間がカラ期間になる。一学生、サラリーマンの妻、海外居住者が国民年金に任意加入しなかった期間。中国残留孤児の在外期間など。

厚生年金の脱退手当金をもらった期間。一国内に住む外国人が、加入できなかった期間。在日外国人は一九八二(昭和五七)年から国民年金に加入できることになったが、それ以前の期間は、カラ期間の扱いとなる。旧国民年金とくらべて、カラ期間が拡大されたのは、加入期間の短い人でも、これによって年金受給に結びつき、無年金者をできるだけ少なくするためである。ただし拡大されたカラ期間が使えるのは、新制度が適用される一九二六年四月二日以後の生まれの人である。

2014年11月11日火曜日

裁判における大企業優遇処置

逆に、元裁判官を顧問弁護士に迎える時の企業の気持ちを想像してみてください。「あのとき痛い目に遭わせてくれた裁判官だけれども採用してやろう」などという企業がこの世にあるでしょうか? 裁判官を辞めることになったとき予想されるこんな事態に、あの「賢い」人々が目をつぶって行動できるのでしょうか?

そうだとすると、政府、大企業などの強者から被害を受けた人は、一度現実に被害を受け、裁判でも敗訴して、二度にわたって被害を受けるということが繰り返されるわけです。こうして敗訴してしまう人たちは、その二重の怒りをどこに持っていけばいいのでしょうか。

日本の民事訴訟では、法律によって証拠集めが阻害されているような格好になっており、おまけに、その証拠の評価にまでバイアスがかかっている恐れかおるという話でしたが、それだけではありません。争いを解決する基準となるべき法律そのものまでが、事業者寄りにできているのです。

とりあえず、証拠が奇跡的に出てきたとしましょう。これがすんなりと通っても事実をなかなか認めてもらえないこと(これが裁判官の匙加減によることは先に述べました)と、そこから出てくる結論の乏しさはどうしようもありません(これがここから述べることです)。というのも、事業者は、法律的にはさして責任を負わなくても済むように、初めからできていることが多いのです。

2014年10月10日金曜日

行革選挙の結果

最終答申は、とくに地方分権について、「地域に関する行政は、基本的に地方自治体において立案、調整、実施するものとし、地域の実情に応じた個性豊かな行政が展開できるよう」にすべきだとして、「基礎的な自治体である市町村が、行財政能力を充実させ、住民生活やまちづくりに関する行政をはじめ地域社会に関する多様な行政を、自主的・自律的に担い得る行政主体として確立される」べきだと強調した。

従って、本来なら自民党もこのような順序で行革を行うことをあらかじめ宣言すべきだった。ところが、自民党の公約には、地方分権や規制緩和などスリムな政府をつくる前提条件にはさっぱり熱意がなく、省庁を半減する理由が見えてこない。さらに、重大なのは、どんな社会をつくるために省庁を再編成するのか、というもっとも基本的なところが不明確であった。これが最後まで尾を引くのだが、選挙のときにはそれがまだみえていなかった。

一九九六年十月二十日に行われた行革選挙の結果はどうだったか。与党連立政権の自民党は五百議席のうち二百三十九議席(前回二百二十三議席)を獲得し一応勝利した。しかし、社民党は十五議席(七十議席)、新党さきがけは二議席(十三議席)と大きく後退し、両党は自民党との閣外協力を選択した。

このため、同年十一月七日に発足した第二次橋本内閣は、一九九三年の総選挙で敗北して以来、野党・連立政権の時代を経て三年三ヵ月ぶりで自民党単独政権に復帰した。自信をもった橋本首相は、同年十一月二十九日の臨時国会で、公約の行政改革を膨らませて五大改革を打ち出し、自民党の議席から拍手、野党席から「大風呂敷」というヤジが飛んだ。

首相はその演説のなかで「行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、財政構造改革の五つの改革を本内閣の最重要課題といたします」と述べ、「行政改革が国民的課題の中心」と確認し、「私は、この国民本位の行政改革を中央省庁の再編を中核として進めてまいります。私自らが会長となる行政改革会議において、二十一世紀における国家機能のあり方、それを踏まえた行政機関の再編のあり方と官邸の機能強化という三つの課題について検討いたします」と約束した。 

2014年9月10日水曜日

利益の極大化をめざす

株価収益率がきわめて高いレベルに維持されているということは、日本企業から見れば外国企業を買収しやすく、外国企業から見れば日本企業の買収が非常に困難、ということになる。最近では日本企業の株価収益率も下がってきているが(一九九一年末)欧米の企業にくらべると、まだまだかなり高いレベルにある。高い株価収益率は、いわば侵人れを撃退する中世の濠や城壁のようなものだ。
 
日本企業と対照的な行動に出たのが、アメリカの家電メーカーだ。アメリカの家電メーカーは、利益極大化の戦略にしたがって市場からの撤退を繰り返し、ついに消え去る運命をたどった。日本のメーカーが白黒テレビの市場に輸出攻勢をかけたとき、アメリカの家電メーカーは利益率を日本企業なみに引き下げて戦うよりも、市場から撤退する道を選んだ。それでも、白黒テレビ以外の分野では目標どおり一五パーセントの利益率を上げることができた。

だが、日本企業が低い利益率をものともせずにラジオ、ステレオ、カラーテレビとつぎつぎに新しい製品市場に参入してくると、アメリカのメーカー各社は足並みを揃えたようにひとつまたひとつと市場から撤退を続け、とうとう家電製品の業界から完全に姿を消してしまったのである。撤退を続けながらも、アメリカのメーカー各社はそれぞれの時点において目標とする高利益率を達成していた。アメリカ企業の経営陣に言わせれば、収益率を下げてまで生産を続けるよりも、さっさと市場から撤退するほうが合理的なのである。

利益の極大化をめざすアメリカ企業からすれば、マーケットーシェアを拡大するためにがんばるのは合理的ではない。戦うより降参する道を選ぶほうが理にかなっている。戦えば戦うほど消費生活を潤す利益が減ってしまうからだ。理論の上では撤退によって余った労働力はいつでも生き残った企業に雇ってもらえるわけだから、不都合なことは何もない。実力があれば、相手のトップ経営陣から引き抜きがくるはずだ。

賃金は労働者が各々の生産能力に応じて得るものであり、どの企業のために自分の生産能力を発揮するかはたいした問題ではない。より多くの消費を可能にするために働く労働者は、いわば金で雇われた傭兵のようなもので、優勢なほうへさっさと寝返ってしまう。対照的に、エンパイアービルダーの労働者は、侵略者を撃退しようとして戦う。

2014年8月14日木曜日

イタリアを改革する二度目のチャンス

イタリアでは、あたかも違った部族であるかのように、左翼と右翼の政党は深刻に対立している。これは同国において、共産主義者が残した強い影響力によるものである。すなわち一九六〇年代に、ソ連が一部、資金援助を行ったこと、さらに一九七〇年代や八〇年代初期に、都市ゲリラがイタリアを根底から揺さぶったことに起因している。二つ目の重要な相違点は、財政問題にある。一九九〇年代に景気停滞があったものの、日本では真の経済危機はなかった。しかし一九九〇年代末に、日本政府は改革を行わなければ経済危機に襲われるという、厳しい現実に直面したのである。

当時、政府の財政赤字は膨大な水準に達していた。ピーク時にはGDP(国内総生産)のほぼ八%にも上り、アメリカのジョージーブッシュ大統領が、厳しく批判された財政赤字額の倍以上たった。しかも全般的な公的債務は、GDPの二〇〇%にも達しようとしていた。結論ははっきりしていた。なんらかの手を打だなければならなかったのである。そこで橋本政権は、財政赤字を縮小するために、公共支出を削減し、さらに小泉政権下では政府機関を民営化し、その権限を縮小したのだ。その例が住宅金融公庫や日本道路公団、それに日本郵政公社である。

その一方、イタリアでは一九九〇年代に民営化はほとんど行われず、最近に至っては皆無である。二〇〇一年から二〇〇六年の在任中、ベルルスコーニ氏は人気を博するために減税し、公共事業の支出を増やしたので、財政赤字は大幅に増加した。イギリスの言い習わしに、「お金がものを言う」というのがあるが、最近はイタリアよりも、日本のほうにこれがよく当てはまるようだ。

日本での改革は、財政上の必要性から行われたのであり、変革を求める実際の社会や政治的要請からなされたのではなかった。しかし果たして同様なことが、イタリアでも実行可能だろうか。二〇〇六年、ベルルスコーニ氏の後を継いで、新内閣を率いたロマーノプローディ氏は、中道左派政党に属し、EU(欧州連合)の行政執行機関である欧州委員会の委員長を務めたが、財政改革を強く望んだものの、財政赤字をGDPの四・五%から二%に削減した以外は成功を見なかった。

ベルルスコーニ氏が復帰したからには、国を改革する二度目のチャンスが訪れている。彼もまた、今や厳格な財政緊縮を続けると言明している。ベルルスコーニ氏は、政権を去った後に、おそらく日本の勉強をしていたに違いない。

2014年7月21日月曜日

ドル・ペッグ制

一般的に「情報の非対称」が存在するために普遍的にセーフティーネット自体がモラルハザードを発生させるのではなく、市場や社会の変化に伴ってセーフティーネットに穴が開いてしまう時、モラルハザードが発生する。そしてセーフティーネットに連結する制度やルールが前提としていた公共性が、市場や社会の変化によって失われたために、その規制体系を悪用することが反モラル的行為とは見なされなくなるのである。

ただ単に規制緩和によって機能不全に陥ったセーフティーネットを外してゆけば、事態が改善するというわけではない。先述したように、とりわけ労働・土地・資本(あるいは貨幣)といった本源的生産要素市場では、セーフティーネットが機能不全に陥った場合、各経済主体が「自己責任」を果たそうとすればするほど、市場は麻庫してしまうからである。必要なのは、市場や社会の変化に応して、セーフティーネットを再構築し、それに連動して制度改革を行うことなのである。

こうして見てくればわかるように、「情報の非対称」という議論は、モラルハザードという現象の根本的要因を説明しえていない。せいぜいのところ、それは静態的な断面の一部しか説明しえていないといってよいだろう。ところで、それまでセーフティーネットとして機能していた制度が、規制緩和政策にとって穴が開いたために逆機能を果たすようになる場合もある。つい最近の事例では、東南アジア諸国の通貨危機に際して、ドルーペッグ制が果たした役割をあげることができるだろう。

通貨危機が起きる以前のアセアン諸国は、自国の通貨価値(為替レート)をドルにリンクさせるドルーペッグ制をとっていた。そうすることによって、アセアン域内の諸国はお互いの通貨価値を間接的に「固定」することができた。つまりタイ対マレーシア、マレーシア対インドネシア、あるいはインドネシア対フィリピンというように、個別の国同士の間で為替レートを調整することなく、すべての国々がドルーペッグ制をとることによって、互いの為替レートの安定的な関係を築くことができたからである。

このドルーペッグ制は、為替リスクの発生を防ぐことによって、貿易取引や資本取引に関する一種のセーフティーネットの役割を果たしていた。為替レートが大きく変動すると、互いの国の企業同士は為替変動のリスクを負うことができなくなり、貿易取引や資本取引を阻害するからである。

2014年7月7日月曜日

「月曜日の夕刻は最も神経を張り詰める時間である。」

週五回の夜のテレビ・ニュースのキャスターをしているものにとって、月曜日の夕刻は最も神経を張り詰める時間である。これから五日、高熱が出ても下痢が止まらなくても出なければならないナマ番組が続く。体調を整え、気力を充実させなければならない。

週末に起きたことを整理しておく必要もある。ことに祭日の月曜日は、国内はもちろん、まだ日曜日が明けていない海外も、ニュース量が極端に薄いという特殊条件がある。

だから他局の夕方のニュースの内容も、自局の夕方のニュースで出た映像も、念入りにチェックしておかなければならない。局入りしてから準備しては遅いのである。家内には、五日間の背広とワイシャツとネクタイのコーディネートを考える作業がある。

そのような時に突然客を連れてきて、めしを振舞え、という神経では話にならない。これから一週間の勤労がはじまるという月曜日の出勤間際のサラリーマンの家に客を連れてきて、すぐ酒の支度をしろ、というようなものである。

うちの息子たちは、幼いころでもこういう日には絶対に友人を遊びに連れてこなかった。家内が厳しくいってきた影響ももちろんあるが、そのくらいの分別は、父親はこのように神経を張り詰めて働いているのだと思えば、幼児にでもつくのである。

その分別がないのが、四人組でありその子供たちである。そして、そのような私の仕事に対する極度の無理解の延長線上に、カネは入るが肩書がない、という母親の放言、肩書すなわち社会的地位がないのにカネが入るのはおかしいのだからタカっても一向に構わない、という母親の論理がくるのである。

こうした神経と、私の息子が、これは親父はテーブルを引っ繰り返すくらい怒るな、とその瞬間に身構えた反射神経との間には、ひとくちに同じ家族といっても天地の開きがあるといわなければなるまい。

2014年6月21日土曜日

公的年金制度の種類

物価スライドや賃金スライドの導入は、制度発足時には想定されておらず、積立方式では無理な仕組みです。この両制度の導入により、積立方式から、現役世代の保険料で年金受給者の年金をまかなう「賦課方式」への転換を行わざるをえなくなったのです。現行制度では、受け取る年金総額のうち、本人の積み立てた額(プラスその運用収入)は、約二割にすぎないといわれています。

公的年金制度は大きく二つに分かれます。サラリーマンなどの被用者(会社などに雇われて働く人)向けの厚生年金と農業者や自営業者などが対象の国民年金です。一九八六年の年金改正で、国民年金は厚生年金の一階部分と共通の基礎年金に再編成されました。厚生年金とほぼ同様の仕組みとなっているのが、公務員向けの共済年金です。

その他私学に勤務している人たちの私学共済など、共済年金は五つ存在しています。私学共済と農林漁業者共済は、有利な給付設計を独自で行うために、昭和三十年前後に相次いで厚生年金から分かれました。厚生年金の給付額が共済年金と比較してきわめて低かったからです。

わが国の一年金の大きな問題として、年金制度が分立していることがあげられます。自営業者と被用者と分立しており、さらに被用者の中でも五つの職域ごとに分立しています。年金制度は、加入から受給が終わるまでは六十年以上もかかる、超長期の制度です。長い間には、産業や企業、職業の盛衰が必ず生じます。国鉄がその代表例です。国鉄は国鉄一家ともいわれ、年金も独自の共済を持っていました。

モータリゼーションの進行で、国鉄の経営は大きく傾き、ついには民営化されました。国鉄共済も加入者の減少(従業員数の減少)と年金受給者の増大(退職者の増大)、さらには厚生年金よりも有利な給付設計などが原因となって、ついに年金財政は破綻。最初はNTTや専売公社(現JT)という昔の公共事業体仲間の共済に助けられましたが、それでももたなくなり一九九七年には三共済ともに厚生年金に統合されました。

2014年6月7日土曜日

足の病変(閉塞性動脈硬化症)

糖尿病患者の足には、動脈の狭窄あるいは閉塞(閉塞性動脈硬化症)が起こる頻度が非糖尿病者よりも明らかに高いといえます。閉塞性動脈硬化症の典型的初期症状は、足部に限局したしびれ感、冷感です。閉塞性動脈硬化症が進行すると、下肢運動時に疼痛を感じるようになります。これを間欠性数行といいます。この疼痛は、筋肉に十分な酸素が供給されないために起こる疼痛であり、歩行により誘発され休息により速やかに消失します。

日本では欧米に比べて、糖尿病患者での下肢動脈病変の合併頻度が低いのが特徴です。WHOがまとめた下肢切断、間欠性数行の発生頻度は世界平均で三・二%であるのに対して、日本では〇・五%と低率であり、多くが比較的軽症例です。

「血糖かコントロールできれば、糖尿病の合併症は予防できるのか」という大問題に結論を出すために、アメリカで一九八三~一九九二年にかけて大規模追跡調査(DCCT)が行われました。対象は三九歳までの1型糖尿病一四四一例、各群ほぽ同数ずつ強化インスリン療法群(一日二千四回のインスリン注射を行い、厳格な血糖ゴッドロールを行う治療法)と従来の標準的なインスリン療法群「通常療法群、一日一」一回のインスリン注射を行う治療法)に振り分け、平均六・五年)の経過観察を行いました。経過中の血糖コントロールは、通常療法群では糖化ヘモグロビンが連続的に九%前後であったのに対し、強化インスリン療法群では治療開始後二十六ヵ月以内に七・〇~七・二%に低下し、以後このレベルが維持されました。

その結果。強化インスリン療法は通常療法に比べて網膜症の発症危険度を七六%減少させ、網膜症の進行を五四%遅延させ、重症な網膜症への進展を四七%減少させることが証明されました。この大規模追跡調査により、血糖を厳格にコントロールすれば糖尿病合併症の発症予防および進展防止が可能であることがはじめて証明されました。

イギリスでは一九七七年から2型糖尿病を対象とした大規模試験(UKPDS)が始まりました。一九九一年までの間に二三の施設から新しく発症した2型糖尿病患者五一〇二例(平均年齢五三歳、白人八二%、平均空腹時血糖二〇七)が登録されました。三ヶ月間の食事療法後に空腹時血糖二七〇以下の症例を、従来療法群(一二一八例)と強化療法群(二七二九例)にわけて、平均一〇年間継続して治療しました。従来療法群では、食事療法から開始し、高血糖による症状がみられず、空腹時血糖二七〇以下を治療目標としました。

2014年5月23日金曜日

通貨同盟を先行させる

交換レートを妥当なレベルに設定するならば、東独経済の再建にはプラス効果を発揮すると期待できる。だが、直面している人口流出と、それに付随する危機的状況には対処しえなくなってしまう。ドイツ政府と金融当局は、通貨同盟のスタートに当たって重大なディレンマに陥ることになった。

ドイツーマルクとオストーマルクの交換レートは、ヤミ市場では九〇年初め頃は「三対一〇」が中心的相場であったが、場合によれば「一対二〇」といったオストーマルクの超割安相場すらも出現した。政治的には当時のSPD(社会民主党)が独自の交換レート案、三対七」を表明していた。東独政府怯父換レートは「一対四」が妥当であるとの見解を提示していた。西独の金融当局筋では「一対四」を上回る交換レートは東独通貨の過大評価を意味し、経済的には好ましくないインパクトを及ぼすとの見方を示していた。

通貨同盟を先行せざるをえなくなったなかで、交換レートの正式決定も急がざるをえなくなった。結局、交換レートは政治的観点から決定されたが、これも最初はコール首相の政治的思惑が強く絡んだ形で打ち出されたため、スムーズに決着したわけではなかった。九〇年三月に東独で自由選挙が実施されたが、ここでコール首相は与党のCDU・CSU(キリスト教民主社会同盟)系候補を有利化させる意味もあり、交換レートを「一対四に設定するとの意向を表明した。

この交換レートは、ヤミ市での「一対一〇」や、野党SPD案の「一対七」と比べ収ば経済の現実をないがしろにしたものであり、東独国民の歓迎を買うための政治的主張であっだのに明白であった。このため、経済運営を実践する上で物価安定にきわめて強い責任感を示すブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)は、コール首相案の「一対四」の交換レートに対し難色を示した。だが、再統一や通貨同盟の先行実施など、ことごとくが奔流のような内外政治情勢の急変を背景にしているだけに、経済の論理などが優先的に受け入れられる条件が、所詮は存在していなかった。

政治的要因を優先させて決着をみた経済的事情が、経済の実体を反映した基本的な論理と著しく合致しないものであれば、経済の論理が必ず自己貫徹し、やがては重大な経済的問題に悪化してくるとともに、それが政治的にも重大な問題として波及してくる。ドイツ再統一においては、経済の論理への配慮がほとんど払われなかった。このため、一段と深刻な政治問題を惹起させるのにさはどの時間的経過は必要ではなかった。

2014年5月2日金曜日

モーゲージ・ローンの証券化

本来、住宅資金貸付は米国のS&L(貯蓄貸付組合)、相互貯蓄銀行、信用組合の専業である。家計の貯蓄性預金を吸収し、これを不動産(土地・家屋)抵当貸付、消費者金融などに運用してきた。

金利激変期には、ことに金利水準が高騰すれば、低利・長期の固定金利型ホーム・ローンを大量にかかえ、比較的高利の貯蓄性預金を積み上げている財務体質は、まずディスインターミディエーション(金利選好気運の上昇から貯蓄性預金の吸収難、はては預金の流出という事態)が広範に起こり、それをカバーしようとして外部の高利の市場性資金に依存することとなる。

また、外部金利に連動する貯蓄預金(一九七八年のMMC導入)を創設して預金流出を食いとめようとすると、原資のコスト高騰を招くこととなる。

こうして七〇年代末期には、S&Lの利益大幅低下、逆ザヤ現象が広く発生し、経営危機が随所にみられるようになる。このように、資産(貸出し)と負債(貯蓄預金)の金利のミスマッチ(非対応)、長期化した低利貸出しと短期化した高利の調達資金の期間的ミスマッチの拡大が進むため、それらの財務体質の改善・収益向上を狙って、これらの金融機関側からモーゲージ・ローン(Mortgage Loan)の証券化が進むこととなった。

すでに米国では不動産担保貸付金債権証書(日本の抵当証券と同種)は法律上、証券と認定され、譲渡可能性ある金融取引対象ではあったが、その専門性のため広範な金融取引物件とはなりえなかった。

一九七〇年に政府系金融機関であるGNMA(ジニー・メイと略称、政府国立抵当金庫)が初めてパススルー証書を発行し、広範な市場性ある担保抵当証書を開発した。

翌七一年、FHLMC(フレディーマックと略称、連邦住宅金融抵当公社)、八一年にはFNMA(ファニイと略称、連邦国立抵当公社)が相ついで、パススル証書を発行した。

これらの政府系機関発行の商品名は一般に、ジニーメイ・パススルー、フレディマックPC、ファニイメイMBS等と
呼ばれ、八六年三月末で合計、三、九二九億ドルの巨額に達している。他方、民間版も七七年にアメリカ銀行を第一号として続々と発行を行なっている。

2014年4月17日木曜日

戦場での運の話

「文学界」の連載の最終回の稿を先日渡して、とにかく、間に合った、と思っている。十八年前に、私流の戦争長篇小説三部作と称するものの執筆を企画し、第二部までは五年間で書いたが、第三部がなかなか書けなくて、第二部のあと十三年目にやっと終えたという次第である。間に合った、というのは、書けないうちに死ぬかもしれぬと思っていたからである。

この第三部は「フーコン戦記」という題で、北ビルマで悲惨な戦いを続けた北九州の部隊の話を書いた小説で、一昨年から二十二年間にわたって連載した。私には、精励努力などという殊勝なものはなく、なにか、運のままに流されているうちに、なんとか食えるだけは食えるようになった。幸運である。戦場から生還できたのも幸である。といって、そういった幸運をいちいち感謝しながら生きているわけではないが、戦争を扱った小説を書き、自分の経験した戦場を思い出すにつけ、とても人間にはどうしようもない運というものを考えさせられる。

戦場での運の話をしだすときりがなくなるが、ひとつ、いまだにふと思い出す追憶がある。私か経験した戦場は、中国雲南省の龍陵というところで。私の所属する仙台の師団は、包囲されて苦戦している龍陵守備隊を救出すべく、南ビルマから馳せ参じた。そのおり、私はトレードに出された。ブロ野球なら、私は自由契約選手になったところだが、軍隊では、私がいかに劣等の下級兵士でもそれはない。だから分隊長同士話し合って、第二分隊の私にタバコを二つつけることで、第一分隊の一等兵とのトレードが成立したのである。

私は第二分隊の壕から追い出され、第一分隊の壕に移った。その夜、迫撃砲弾の破片が、第二分隊の壕に移った一等兵のカカトを砕いたのである。私か東北の師団に召集されたのも運、あの分隊長との出会いも運、劣等であったのも運、あの日トレードに出されたのも、私にとっても一等兵にとっても運。T君は、まだ健在だろうか。だとしても、足をひきずっているのではないか。