2015年12月10日木曜日

窮余の一策の電報

これには主人も困ったが、何もしていない幸之助をやめさせるわけにもいかないということで、結局、その店員をやめさせることになった。ところが、それからあとの店の空気がガラッと変わってよくなった。気分的に明朗になり、引き締まった。意図してやったことではなかったが、幸之助が自分の信ずるところを訴えたことが、店の改革につながったのである。明治時代も後半になると、街の様子は激しく変わっていく。ガス灯やランプが電灯に替わり、古い商家がこわされて新しい洋風建築が立ち並ぶ。丁稚や職人に替わって、工場労働者やサラリーマンが増える。交通機関も、乗合馬車から電車に替わる。大阪の街にも明治三十六年、市電が走った。

明るい電灯のついた洋風建築の立ち並ぶ大通りを多数の乗客を乗せて走る電車を見て、幸之助の心は動いた。「今の自転車店での仕事にはこれといって特に不満はない。しかし、新しい電気の仕事をしてみたい」幸之助は大阪市内に住んでいる姉夫婦を訪ね、自分の考えを打ち明けて、義兄に大阪電灯会社への就職の世話を依頼した。しかし、六年間何かと世話になってきた店である。長いあいだ寝食を共にした仲間もいることを思うと、愛着があり、なつかしさがあり、「お暇を頂戴したい」のひと言がなかなか言い出せない。その一方で早く店を出て電灯会社へ替わりたい気持ちが日に日につのってくる。そこで、窮余の一策で一計を案じた。

「ハハ、キトク」人に頼んでこう電報を打ってもらった。主人はこう言ってくれた。「お母さんが病気で心配だろう。ここ四、五日、落ち着きがないようだが、万一店をやめたいとでも考えているのなら、正直に話しなさい。六年も勤めてくれたのだから、どうしてもというのなら暇をあげよう」しかし、幸之助はこの主人の思いやりある言葉に「そうです」とは答えられなかった。心ではすまないと詫びながら着替え一枚を持って店を出て、それきり帰らなかった。しばらくたってからお詫びと、暇をもらいたい旨を手紙で伝えたのである。

幸之助が十五歳のときのことである。やおれは運が強いぞ幸之助は、十五歳のとき、町を走る市電を見て電気事業にひかれ、六年近く勤めた五代自転車商会をやめた。そして大阪電灯会社への入社を志願するが、欠員が出るまでの三ヵ月間、セメント会社で臨時運搬工として働くことになった。その間の出来事である。幸之助は毎日、大阪築港の桟橋から船に乗って仕事場に通っていた。夏のころであったが、ある日、帰りに船べりに腰かけていると、一人の船員が幸之助の前を通ろうとして足を滑らせた。その拍子に幸之助に抱きついたので、二人はそのまま、まっさかさまに海に落ちてしまったのである。

びっくりした幸之助は、もがきにもがいてようやく水面に顔を出したが、船はすでに遠くへ行ってしまっている。ご」のまま沈んでしまうのか”不安が頭をよぎった。が、ともかく夢中でハタハタやっているうちに、事故に気づいた船が戻ってきてようやく引き上げてくれた。人々が夏でよかった。冬だったら助からなかったろうと、幸之助は自分の運の強さを感じた。また、こんなこともあった。松下電気器具製作所を始めたばかりの大正八年ごろ、自転車に部品を積んで運んでいたとき、四つ辻で自動車と衝突したのである。五メートルも飛ばされ、気づいたときには電車道に放り出されていた。そこへちょうど電車が来た。やられると目をつぶったが、電車は急ブレーキをかけ幸之助のすぐ手前で止まった。部品はあちこちに散乱し、自転車はめちゃめちゃにこわれたが、幸之助はかすり傷一つ負わなかった。

2015年11月11日水曜日

エビングハウス・ジャズドロー

周囲にある図形の大きさいかんによって同じ大きさのものが大きく見えたり小さく見えたりするし(エビングハウス)、またそばにある図形の、たまたま近接した部分が短いというだけで、その図形はより大きく見える(ジャズドロー)。また同じ長さの線でも、それが一部を成している図形の大きさいかんによって、長くも見えるし、短くも見える。

このように錯板は、私たちの視覚が日常生活の間に知らないうちに行なっている調節作用、適応作用をいわば明るみに出してくれる一つの手だてとなるのであって、決して単純な錯誤とのみいいきれるものではないのである。むしろ、もっと多くの鈷板現象を研究することによって、私たちは人間の眼の本当の働き方をもっともっと深く知ることができるようになるのではないだろうか。

2015年10月10日土曜日

難民としての保護

一般的にいえば、他の逃走手段がみつからない場合に車を盗んで越境したことだけでは、難民の資格を否定されない。バイシャックの場合、犯行者を航空機所属国に引き渡すか、犯行者を捕捉している着陸国が自ら、その者を裁判にかけるかを、着陸国は選ぶことができる。着陸国が後者を選ぶことによって、航空機所属国による政治的処罰から当人を免れさせ、この者に対して公正な裁判を行ない、公正な処罰を科すことができる。このことは、航空機所属国の処罰を免れても着陸国の裁判を免れることはできない、という制約付きではあるものの、庇護の付与を意味する。

また、条約上の難民定義の運用に話を戻そう。難民条約草案の審議過程において、「十分に理由のある」という限定句が定義規定のなかの文言に、わざわざ付けられたのは、難民であると主張する者がその主張を自ら証明する責任を負うことをはっきりさせておくためだ、といわれている。しかし、実際には、ほとんどの難民は、命からがらで他国にたどりつき、証拠になるようなものを何ももっていない。通常の裁判手続きの場合と同じような立証責任を、難民に負わせることは、無理な話である。

立証責任の大幅な軽減とか、第一次的に一定の部分(例えば、個々の難民に直接かかわっていたとされる事実関係)までは難民に立証責任が負わされるにしても、他の部分(例えば、本国政府による迫害措置の一般的可能性)からは国の側にその責任が転嫁されるとか、さらに、難民の申し立てだけであってもそれにもっともらしさがあるかどうか、経験上判断できるという方法を充実させる、というように、様々な工夫が考えられる。ヨーロッパ各国では、難民認定機関がこの工夫を積み重ねているし、アメリカでは、連邦裁判所が判例を通じて、この点で積極的な姿勢をとっている。ところが、日本の当局、裁判所は、通常の民事事件や刑事事件を扱う場合と同じように、証拠による厳格な審査方法しか認めず、証拠をほとんどもっていない難民資格認定申請者に対してその立証責任を軽減するための取り組みが、大変遅れている。

条約難民であると公的に認められると、難民条約に定められている様々な保護が与えられる。しかも、条約に定められている保護は、最低限のものであって、各国が、それ以上の保護を与えることは、条約上歓迎されている。とりわけ、重要な保護は、難民を迫害のまっている国に追放してはならないし、送還してはならない、というノンールフルマン原則である。この原則は、難民条約以後、各国の国内法や、各国間の「国際司法共助協定」、「犯罪人引渡条約」など、多数の国際条約にも定められるようになり、いまや国際慣習法になっている、とみる考え方も多い。特に注目されるのは、この原則か。難民と公的に認められる前であっても迫害が予想される場合には適用される、と考えられるようになっていることである。

しかし、ノンールフルマン原則にも、重大な限界がある。第一に、条約難民と認められた後でも、当人が入国した国の安全にとって危険であると判断されるだけの相当の理由がある場合と、その国で重大な犯罪を行ないその国の社会にとっても危険な存在となったと判断される場合には、この原則が適用されないこともある(第三二条二項)。ただし、具体的にどのような場合が、ノンールフルマン原則の例外にあたるのか。

この点は、もうひとつ、はっきりしていない。それでもなお、後の国連決議二九六七年の「領域内庇護に関する宣言」)や、国際会議で条約の実現まではいかなかったものの、採択された事項(一九七七年の「領域内庇護条約」案)では、この例外の場合の範囲は、いっそう広く解釈された。国の安全や社会にとって危険な場合だけではなく、人の大量流入の場合にもノンールフルマソ原則に対する例外が許されている。大量難民問題こそ重大であることを思えば、このことは、難民保護制度にとって大きな限界である。

2015年9月10日木曜日

空調3本柱でグローバル展開

井上は空調事業が向かうべき方向を早々に見定めた。94年10月、常務会で「空調改革計画」を決定した。業務用エアコンに重点を置く従来の路線を改め、ルームエアコン、業務用エアコン、オフィスビルなどに導入するセントラル空調の3本柱を戦略的に追求する。国内ルームエアコンの市場シェアが伸び悩み、セントラル空調の不振が続くなかにあって、空調3本柱戦略への転換は会社の命運をかけた決断である。こうして第1次空調事業改革は始まった。『日本の有力空調メーカー』から「世界を代表する総合空調メーカー」への脱皮を目指す基本路線の出発点はここにある。

それまでは業務用エアコンにものすごく力を入れ、売り上げも利益も上げてきました。ルームエアコンやセントラル空調も取り扱っていましたが、二の次三の次でした。セントラル空調はゼネコンなどとの付き合いもあって取り扱ってはいるか、赤字続きでした。それでも業務用エアコンで利益が出ている限りは空調全体ではプラスになるから、それでいいという感じでしたね。そんな情勢だったので、大不況になると経営資源を業務用エアコンに集中して堅実に利益を上げていく方針に会社全体か傾きつつあったように思います。

証券アナリスト説明会へ行くと「ルームエアコンはもうやめるべきだ」「なぜやめないのか」といった声ばかりだったようです。社内でも過去に空調担当の副社長がルームエアコンからの撤退を提案したこともあり、日本一の業務用エアコンをさらに伸ばす方が業績は向上するという見方かありました。セントラル空調はゼネコンから値下げ要請を受けるのですが、バブル崩壊で一層、要請が厳しくなり、果たして事業として成り立つのかという議論もありました。

それでも3事業を並列に置いたのは、これからはグローバル化の時代だといケ意識があったからです。空調のグローバル展開を正式に打ち出したのは96年に新経営計画「フュージョン21」をスタートさせたときですが、第1次空調改革で国内空調の立て直しに着手した時点でグローバル展開を意識していました。そうでなければいち早く空調3本柱とは言えませんでした。国内空調の立て直しだけを考えるのなら、当社が得意な業務用エアコンに特化し、セントラル空調を縮小したかもしれません。空調事業をグローバルに展開するうえでは品ぞろえが充実していた方がよい。

それに、3事業にはそれぞれ人がいます。技術者や営業担当などで一生懸命やっている人たちの気持ちを何とかしたい。まだまだ打つべき手があるので赤字から脱却する可能性もある。業務用エアコンにしても当時でも国内のシェアはトップで、技術力もありましたか、業務用エアコンを主軸にしている会社は当社だけであり、もっと断トツになれるはずだと思いました。日本の空調は成熟市場ですし、日本は大不況でもありました。企業の成長を目指すのなら海外に出る以外にありません。その意味でも、空調3本柱のノウハウを国内でしっかり蓄積しておく必要がありました。国内にノウハウがないのに海外に移転するのはとても無理です。

しかも、近い将来、空調機器の保守・メンテナンスやサービスで利益を上げる時代が来るとにらんでいました。そう考えると、赤字続きのセントラル空調はサービスの付加価値が大きい。発展途上国などで新しいビルが建つと。セントラル空調か大きく伸びます。成長市場の中国では大型機の方が圧倒的に利益率が高いのです。94年度にセントラル空調部門は二十数億円の赤字でしたが、2003年度に黒字に転換できました。3本柱のうちの一番大きな赤字を黒字にできれば会社の業績回復か早い。日本市場だけでなく海外も考えれば市場見通しがころっと変わることもあります。リストラだけでは会社の発展はないし、挑戦なくしてはリターンはありません。国内と海外という2極思考を排し、日本、アジア、欧州、米国の世界4極を見据えた商品別のグローバル戦略に転換したのです。

2015年8月12日水曜日

安保理改組の見直し可能性

インドは十一月、「安保理改組の見直し可能性に関する意見提出を勧奨する総会決議案」を総会に提出し、十二月十一日、全会一致で採択された。これは、日本を含む四十力国近くが共同提案国になったもので、翌年六月末までに、加盟国に意見提出を勧奨するよう事務総長に要請する、という極めて回りくどい手続きを取っている。しかし眼目は、安保理改組を、総会の正式議題に取り上げて討議を本格化することにあり、事実、この決議案をきっかけとして、論議は避けられない流れになった。安保理改革への動きに弾みがついたもう一つのきっかけは、アメリカの政権交替だった。

十二年ぶりに共和党から政権を奪回したクリントン大統領は、九二年の選挙戦のさなかから「日本とドイツを常任理事国に」と呼びかけ、安保理の改革に積極的な態度を示していた。これは、米国一国の主導で秩序を維持するという伝統的な外交政策を転換し、国連を通じた積極的な多国間外交で負担を軽減する、という現実思考の表れだった。従来、ブッシュ政権は、代表部レベルでは日本に好意的な姿勢を示していたが、政策決定事項に上げることはなく、「推進も拒絶もしない」という曖昧な態度を取り続けた。クリントン政権は、国連大使を再度、閣僚に格上げした他、米国の情報共同体を統括する国家情報会議(NIC)の下に、新たに国際機関を担当する国家情報官を加えた。

2015年7月10日金曜日

非エリートが果たした芸術の独立

彼は今も「オリンピック中の北京は屋台もマッサージ店も出稼ぎ労働者もみな締め出して、活気に欠けるニセ(椴的)の北京だ」と話す。《眼我学》に通底するのも大国化を目指して勇ましい言葉を吐く表の中国に対する「瑕的」の感覚であろう。彼のアトリエは草場地という市内北東部の五環道路の外、すなわち郊外にある。村の半分が画廊やアトリエの密集するアート街、もう半分が郊外の農村出身のタクシー運転手や自動車部品工場で働く出稼ぎ労働者の集落となっている。アンバランスな取り合わせにも思えるが、北京の郊外にはこのような混在が至る所にある。混在と言えば、王慶松の経歴もそうだ。1966年生まれである彼が現代アートと出会ったのは20歳すぎと遅い。幼少時からずっと湖北省の山奥の油田で育った彼は23歳まで油田採掘の労働者だった。山奥の油田など情報も限られ、アートとは無縁の思春期だった。教育レベルも低く、小学2年生で8以上の数字を数えられない有様であった。

ただし、彼には今に通じるきっかけがあった。中学を卒業した頃に美術教師を通じて美術が好きになったこと。そして、農村出身の純朴な青年にありかちな働くことで社会貢献する夢が、社会に出て、コネの方が仕事ぶりよりも評価される職場によって幻滅と化した、社会に対する「椴的」の記憶である。彼の故郷は貧しかったが、父親が病気がちだったために彼の家はことに貧しく、学校でも馬鹿にされるほどだった。それでもなんとか高校に通い、家計を支えるべく油田労働者になったが、職場環境に幻滅してまじめに働くことが馬鹿らしくなった彼は苦学して重慶にある四川美術学院になんとか合格、卒業していったん就職したものの、北京で芸術村が形成されていると聞き、何も考えずに北京にやって来た。

それからの3~4年はほぼ無収入で、食堂から賞味期限切れの麺をもらっては飢えをしのぎ、友人だちからの借金で家賃を払った。ぼくが彼と出会ったのはその頃で、当時の彼は写真を用いたコラージュ作品を手がけていたが、フイルム代の捻出にさえも苦労していた。何者でもない貧乏人の彼が今のように台頭するとは想像もしていなかったが、その頃のぼくにしたところで、定職に付かず、今で言うニードの典型のような放浪青年だった。中国で文化人・知識人やメディア関係者の集会に出ると、肩書きのない人間は見向きもされない。日本以上にそうである気がする。そんな中で芸術村の彼らがぼくを受け入れてくれたのは、似た境遇だったからにほかならない。《希望之光》(2007年)は五輪をテーマにしているが、北京オリンピックの華々しさはどこにもない。薄汚れた身なりの家族が眼の前の太陽に希望を見出して歩んでいるが、歩くのはぬかるんだ泥道で、後方に忘れ去られた五つの輪が捨てられたように水溜まりに沈んでいる。

子どもだけが冷静で前の太陽でなく、朽ち果てた五輪を見つめる。いろんな解釈ができるが、いずれにせよ官方のメディアでは取り上げられ得ない作品であるし、生まれてこの方都会で美術しかやったことのない正統の文化人には作り出せぬ主張がある。90年代、出稼ぎ労働者の大群を「盲流」と言ったが、地方出身の貧しい若者が大半を占める芸術村の面々も「盲流芸術家」と言われたりした。この形容は擲楡だが、的を射ている。彼らと出稼ぎ労働者に共通するもの。それは、一般の老百姓のごとく国の言う通りにおとなしく生きても浮かばれないとの諦観に似た処世観、そして、官方から離れてでも自らの理想の人生を実現していこうとする行動力である。

北京に来てからの彼は収入こそなかったものの、次第に欧米のアート界で注目されるようになる。多様な読みが可能な批評性を持つ一連の作品は評価が高く、次第に生活に困らないだけの収入が得られるようになった。贅沢な生活を始めてもよかったが、そうはせずに、今度は何万元もの費用を投じて映画製作所を借り切って撮影の作品をてがけ、いっそう注目されるようになった。王慶松ほど極端でなくとも、北京で活躍する現代アート作家は非エリートの青年期を送った地方出身者が圧倒的に多い。特に人気作家が集中する60年代生まれにその傾向が顕著である。芸術村を築いたのも60年代生まれである。彼らの圧倒的多数が非エリートの地方出身者だったこと。不思議な現象に思えるが、理由は単純である。彼らがもしエリートだったら芸術村など作らずに官方の芸術界に進んだだろうし、彼らが台頭した90年代は官方の芸術界が保守化の傾向を強め、そこから脱け出た彼らの個人的な表現が欧米の美術界から注目され、その延長線上に中国現代アートの市場的成功があるからである。

2015年6月10日水曜日

パチンコの型式試験を独占

警察庁所管の財団法人「保安電子通信技術協会」は、パチンコの型式試験を独占的に行う指定法人である。都道府県公安委員会の委託を受け、国が定めた技術上の規格に照らしてパチンコが適当に稼働するか、を調べるためコントローループログラム解析などの型式試験を行う。

「指定試験機関」に法律に基づき指定されたのは同財団設立三年後の八五年二月。根拠法は「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」第二〇条五項。それには、国家公安委員会規則で定めるところにより、認定または検定に必要な試験の実施に関する事務の全部または一部を、国家公安委員会があらかじめ指定する公益法人に行わせることができる旨、書かれてある。

同法の認定・検定に関する規則が告示されたのが、同財団が試験機関に指定されたのと同じ月だから、所管官庁の警察庁は初めから同財団を指定する計画だったとみてよい。しかも以後、型式試験の実施事務についてはすべてを同財団に委託している。

九九年度の「試験事務特別会計」の項目をみると、この型式試験で年間一〇億六〇〇〇万円以上の収入を上げている。これは予算額を二億近く上回り、「一般会計」に計上されたコンピューター犯罪防止などの研究開発や調査研究の受託事業収入全部を合わせたより数倍多い。型式試験の収入増のおかけで、財団の年間収入が支出をほぼ二億円上回り、財団の正味財産も一三億円以上増えた。

この年、パチンコの型式試験を二六六機種行い、「適合が一七七機種、不適合八九機種」という試験結果を出している。検査は「一〇時間の試射」を規則で義務付けられている。試験手数料は都道府県条例で決められ、一つの型式試験当たりパチンコ五台が検査されて、マイクロプロセッサー内蔵式パチンコだと一五二万四二〇〇円(全国共通)もする。財団は補助金や委託費は受け取っていない。

2015年5月15日金曜日

資源の保全という大原則

当時、韓国では自衛隊が竹島の奪回作戦を敢行して、日韓全面戦争が勃発、韓国がその報復に日本を核攻撃して壊滅させるという物騒な小説がベストセラーになっていた。だが、日本が竹島に経済水域を設定するのは、竹島を力ずくで奪い返す手段ではなかった。日本政府の方針はあくまでも、日韓それぞれが竹島を自国領として重複した線引きをしたうえで、周辺海域の漁獲規制などは別扱いとして、新しい漁業取り決めを結ぶことにあった。それにもかかわらず、単なる原則論の繰り返しにすぎない池田外相発言をとらえて、「妄言」と罵倒して、いきなり日本の政治家との接触を断つとは、あまりにも大人気ない行為だった。

これでは、日韓間に健全な善隣関係が育つわけがなかった。やがてそのことに気づいたのか、韓国は竹島問題を当面棚上げして、日韓漁業交渉を優先することを決めた。元来、経済水域の設定は、他国の利益を排除するものではない。水域内ではその国の国内法が適用されるが、同時に外国漁船の実績は十分考慮されねばならないことは、条約上もうたわれている。資源の保全という大原則に立ったうえで、お互いの水域内で漁獲高をどう配分するか、理性的な話し合いによって現実的な解決が図られねばならないのである。

東西冷戦が米ソ首脳によるマルク島会談(八九年)で終了してから、早くも十余年。冷戦時代のような核兵器の威嚇による全地球規模の全面戦争の危険性は去ったが、それに代わって湾岸戦争に代表される大規模な地域紛争や国境、民族、資源、宗教問題などに起因する局地紛争が多発する危険性が、増大している。規模の大小にかかわらず、あらゆる紛争はもちろん平和的な話し合いによる解決がいちばん望ましいが、湾岸戦争のように多国籍軍の力を借りて、侵略を粉砕せねばならない例も皆無とはいえない。米国の安全保障戦略の基本は、冷戦に一人勝ちした唯一の超大国として、不安定で予測が難しい今後の世界で、いかにして自国の軍事的優位性を維持し、その権益を確保し、自由貿易を発展させ、国益を仲長させていくかにある。

とりわけアジア太平洋地域は、米軍人とその家族などを含めて約四十万人の米国人が暮らし、年間五千億ドルを超える米国の貿易と、米国市民四百万人の雇用を支え、総額千五百億ドル以上の直接投資が行われているだけではない。国連常任安保理事国で核を持つ中口二大国が位置して、米国にとっては文字通り死活的な利害関係を持つ重要な地域である。だからこそ米国は、冷戦時にこの地域に十三万人規模の兵力を展開していたのだ。冷戦の終結にともなって、兵力を九万人に削減する計画が立てられた。しかし、「北朝鮮の脅威」に対応して、東アジアの兵力は最終的に十万人規模を維持する決定が行われた。

2015年4月10日金曜日

沖縄的心情批判の例

彼は、さらにこれを敷折していう。自分に食べ物を与えてくれる者を主人として仰ぐことは、権力追従主義、事大主義に通じるとされ、沖縄的心情批判の例としてしばしば取り上げられたことわざであるが、〈物をくれる人〉とは?むしろ民政の安定に心を配る主権者の意であり、古代中国の放伐(徳を失った君主を追放すること)という、一種の民主革命の肯定と解釈される。沖永良部島では〈食ましゅしど我が御主〉という。たしかにこの古来のことわざは、時によって、また人によって、肯定的に解する場合もあれば否定的に捉える場合もある。それどころか、伊波普猷のような琉球史の大家でさえ、肯定的に捉える一方で、否定的に解している時もあって必ずしも一定していない。

伊波普猷は、このことわざについて「わが沖縄の歴史」という論考の中で、AB二人の人物を登場させて、らぎのように語らせている。「A 沖縄という所は所謂「枯れ国」(引用者注 資源の乏しい貧乏な国)ですから、農政に力を用うるということが、国王たる資格の一になっていました。ところが至って貧弱な国柄のことで、農業ばかりでは到底食っていけないから、自然外国貿易をやらなければならないようになっていました。こういうようなことをして、人民の生活を豊富にしてくれる国王のことを、昔はうにがようあまようなすきみ」といっていました。これは世並の訃しきにかえす君ということで、『おもろさうし』の巾にある言葉です。「食呉ゆ者ど我が御主」という僅諺と殆ど同じ意味の言葉ではありますまいか。

B そうすると、あなたは「食呉ゆ者ど我が御主」という僅諺をい意味に解されるのですか。A そうです。この僅諺は今日(引用者注 大正一〇年代)では事大主義的の悪い意味に使われていますが、「背に腹はかえられぬ」という日本の理諺と同じ意味のもので、沖縄史の真相を解しない人にはわかり忙くいかも知れません」(現代仮名遣いに改めて引用)よりよく生きたいと願う心ところが、伊波は、別の「食呉ゆ者ど我が御主の真意義」という論考では、この僅諺ほど曲解されたものはない、この僅諺は、現今の沖縄(大正四年頃)では、極端な事大主義者の套語になっているが、初めてこれをいい出した人は、どういう心持ちでいい出したのであろう、と反問し、つぎのような内容を述べている。

琉球国初代の王舜天の孫の義本が即位した翌年(五〇年)に琉球では大飢饉があり、さらにその翌年、疫病が流行して人民が半ば死んだので、人々は神意をなだめるために、祭壇を設けて義本を犠牲に供することにした。ところが急に雨が降って火が消え、義本は助かった。しかし彼は、人びとの主君になる資格がないということを自覚して、数年の後、王位を英祖に譲って自らは行方をくらました。英祖はもと浦添の豪農で、農政にくわしい人であった。彼が君臨すると間もなく、沖縄は黄金時代を迎え、人民の生活は豊かになり、世は平和と安楽の時代となる。

ところが、彼の四代後の一三一四年に即位した玉城王は暗愚。長い間の安楽と平和の結果、人口が多くなり、人びとの間に対立や衝突が生じ、やがて三山時代と称される同胞相食む戦乱の時代となる。その結果、属島の貢船なども後を絶ち、せっかく発達した交通貿易も頓挫するにいたった。あげく玉城王の子西威の時になり、南北の二山による強い圧力もあって、中山の国政は衰退し、民心は当時最も徳望のあった浦添の察度に帰した。察度は、日本の商船が鉄塊を積んで牧港に寄港すると、鉄塊をすべて買い取って農具をつくって農民に与えたといわれている。こうして彼は、次第に人望を得て、ついに推されて中山王となる。

2015年3月11日水曜日

虫歯に悩まされていた子供は、今よりはるかに少なかった

おそらく虫歯に悩まされていた子供は、今よりはるかに少なかったのではないだろうか。その後、成人するまで歯科医にかかったことはなかったが、二十歳台の後半に突然歯肉が腫れだした。同時にそのころから、歯肉全体にわたって鈍い痛みを感じるようになった。そこで近所の歯科医に診てもらうと、軽い歯周病と診断された。そのころ五十歳台だった両親も、ひどい歯周病に悩まされていた。母は、食後、直ちに歯ブラシで歯を磨くようにしてから、かかりつけの歯科医が驚くほど歯の状態が良くなったと言っていた。そこで私もまねをして、食後、何はさておいても歯ブラシで歯を磨くことを習慣にしてみた。すると、たしかに歯の部分の不快感が減り出した。しかし歯肉の部分の鈍痛は、すっきりとは消えなかった。

そうしていたある日、歯ブラシで磨いた後、何の気なしにツマヨウジで歯と歯の間を軽くこそげてみた。すると、想像もしなかったほど大量の歯垢がついてきた。幼いときからツマヨウジは歯肉を傷つけ、歯並びを悪くするからあまり使わないようにと聞かされていた。食物の残湾が挟まったときはやむを得ないが、とにかくツマヨウジは歯に悪いものだから、なるべく使うなといわれていた。

しかしそれまでの歯の磨き方では、歯の間の歯垢がほとんど除去できないことが確かだったので、なるべく歯肉に触らないように、ヨウジの尖端を使って歯垢を取り除くことをしばらく続けてみた。そうすると二、三日もしないうちに、長く続いていた鈍痛も消え、口中がさわやかな感じになってきた。また歯肉に触らない限り出血もないので、以来三十年近く、専門家からは低い評価を受けると想像されるような、いいかげんと思われる歯ブラシによる歯磨きと並行してツマヨウジを用いてきた。ツマヨウジによる歯垢の除去は、平均して一上一日に一度の割で行なってきた。

2015年2月11日水曜日

日本型経営・産業組織のゆくえ

日本型競争社会は、今や内外双方からの圧力によって変質しようとしている。では、この競争社会は今後どんな方向に向かっていくのだろうか。まず、国際的には、日本型経営・産業組織の透明性が高められていくだろう。

日本型のシステムについての外国からの不満の多くは、その「わかりにくさ」に一つの原因がある。当の日本の経済主体でさえその中身がわかりにくいものさえある。

部外者にも透明な制度を作り上げていくことは、外国の不満への対策ということだけでなく、制度そのものをより普遍的なものとし、世界に受け入れられやすいものにしていく上でも役に立つに違いない。

そうした中で、自然の流れとして、システムの相互浸透が進行していくだろう。市場・企業活動の国境がなくなっていけば、非常に長期的には制度・慣行の差もなくなっていく。何が生き残り、何が消えるかは、その過程で自ずから明らかになっていく。

日本型経営・産業組織をどのように評価するかということも、その過程で定まっていくだろう。

2015年1月14日水曜日

社会全般の改革・開放政策

韓国のドラマは日本と中国、そして東南アジアでも「韓流」ブームを起こし、ドラマの主人公はアジアのスターとしての人気を博している。このようにアジアの人びとを夢中にさせる素材である男女の愛は、北朝鮮においてもほとんどすべてのドラマにおいて使われる。ラブストーリーはアジアのすべての人びとの共感を得られるものであり、北朝鮮の人びとも例外ではない。ただ、劇中の主人公たちが自らの愛に没頭する韓国ドラマとは異なり、北朝鮮のドラマの主人公たちは、最高権力者に対する「愛と忠誠心」も見せてくれるのだ。ドラマの次に北朝鮮で人気の番組は、スポーツ競技とのど自慢、教養プログラムや海外についての番組、報道の順となっている。体制と偶像化の宣伝に焦点をあわせて繰り返される番組が人びとの興味を引くことができないのは当然のことである。

宣伝と啓蒙的な性格で何度も繰り返される報道番組も、人民の関心を集めるのは難しい。したがってスポーツ競技番組に対する住民の視聴率が高いのは当然であり、このような事実は韓国の経験から見てもよく理解することができる。資本主義国家における放送では、視聴者が主人である。大部分の商業放送は、広告収入のために視聴率を重要視し、視聴者の関心は死活問題である。そのため、時には放送の公共的役割がそこなわれることもある。それでも、そのような過程を経て、放送の主人は視聴者である市民であると確認されるのである。中国のケースを見ても、改革・開放推進後は放送局が利潤を追求するようになり、政府の統制を外れた「半自律集団」となった。そして広告の登場によって、視聴者たちが番組の死活を決定付ける地位に立つようになった。

これに対し、いまだ朝鮮労働党の下部組織として機能している「朝鮮中央テレビ」は、国民の関心を満たすことができないままだ。最高権力者と体制の宣伝に重きを置く北朝鮮のテレビ放送は、退屈なものとならざるをえない。厳しい財政のために再放送を繰り返し、人民の目をひきつけることができなくなっている。しかし、人民の意識が変化し、体制に対する信頼が損なわれ、テレビの宣伝扇動番組に人びとは目を向けないようになった。このような国民の不満を解消するために、二〇〇四年に北朝鮮のテレビは中国のドラマ「紅楼夢」「水滸伝」「ちびっこ戦士チャンガル」を数カ月間放送するという苦肉の策を試みた。

一九九〇年までは北朝鮮のテレビも人民と呼吸を合わせることが可能だったかもしれないが、数年にわたる過酷な経済危機を経て、南北が交流し中国の生活必需品が市場を席巻する現状では、人民との一体感はかなり損なわれていると思われる。朝鮮中央テレビは一〇年以上の停滞状態が続く中、人民の好みを反映させるのが難しい現実に直面しているのだ。北朝鮮の放送は、表向きでは内閣直属の朝鮮中央放送委員会によって管理されているが、すべての放送手段は党によって統制されている。実質的には朝鮮労働党宣伝扇動部が放送を統制しており、北朝鮮の放送はキムージョンイル政権の体制維持のための宣伝扇動機能を遂行しているのだ。この頃では韓国でも簡単に受信することができる「朝鮮中央テレビ」は衛星中継を通して対内・対外的に活用されている。

社会全般の改革・開放政策による経済的発展を土台として中国の新聞と放送が成長できたことを考えるならば、北朝鮮の新聞と放送の変化を期待するのはまだ早いと判断される。また一九八〇年代後半以降のソ連と東欧社会主義国家の崩壊、国際社会における北朝鮮の孤立、経済危機などを考え合わせると、北朝鮮政権にメディア改革を期待するのは相当に難しい面がある。特に、中国が改革・開放の過程で外国の資本と映像の導入、物的・人的交流を許可したのとはちがって、体制の危機を心配する北朝鮮政権は、まだこのような変化には消極的にしか対応していないということも大きな違いだ。