2013年11月5日火曜日

第五代国王のもとで

そして巧みにも、インドーブータン条約第二条の助言により導かれることに合意する。すなわち「インドの助言に従う」という解釈からで徐々にではあるが着実に「インドの助言を参考にはする(が、必ずしもそれに従うとは限らず、独自の判断をさまたげるものではない)」というように、微妙ではあるが根本的に異なった解釈に移していった。国際会議の場で、インドの国益、心情を損しない限りにおいて、インドとは異なった投票をするといった実績を作りつつ、ブータンの独立性を既成事実として築き上げていった。一時インドは、ブータンのこうした動きを好ましく思わなかった時期があったが、次第に雰囲気は変わり、逆にパキスタンをはじめとする他の近隣諸国との関係が必ずしもうまくいっていないインドは、自らの国益に関わる決議事項の場合、ブータンは信頼できる友好国であるという肯定的な見解を持つに至った。

これは、巧みな、そして辛抱強い外交手腕による一種の「宗主国」からの平和的独立であり、いっそう堅固な友好・信頼関係の樹立である。ブータン人官吏の誰もが内心、奇跡でも起きない限り不可能と思っていたこの条約改正は、見事に達成された。この歴史的成果の最大の立役者は、三四年余に及ぶことになった治世の当初から、まさに先見の明を持って、忍耐強く「大兄貴」(Big Brother)インドとの関係改善、信頼確立に取り組んだブータンの「大親分」第四代国王である。わたしが二〇〇七年三月に面謁したとき、第四代国王は、こう述べられた。「ブータンを、国民が幸福感と充足感を持ち、経済的にも繁栄し、平和を享受する主権国家にすることが、わたしの即位当初からの目標であった。それが達成できた時点で、わたしの役目は終わった」ブータンを真の意味で主権国家にしたインドとの条約改正こそは、まさに第四代国王の悲願であり、最後の、そしておそらく最大の業績である。それが事実上達成ざれた二〇〇六年末(署名は翌二〇〇七年二月)での譲位は、誰の目にも突然で、予想よりも一年以上も前倒しされたものと映ったが、第四代国王にとってはしかるべき、もっとも自然な時期であったと言えるのではなかろうか。

以上、第四代国王の治世を概観した。その集大成として、第四代国王から第五代国王に譲り渡されたブータンは、インドの「属国」的国家ではなく、インドと対等な主権国家であり、国民の九七パーセントが幸せだと感じ(二〇〇五年の国勢調査)、満ち足りた平和な日々を享受している。父王の急死という予期できなかった非常事態の中で、弱冠二八歳で急進即位した第四代国王は、国王も一つの役職であり、それをまっとうするのには、しかるべき見習い期間があるのが望ましいと以前から述べていたここれは、自らの事例に即しての述懐であろう。すでに二、三年間国王の職務のいくつかを代行し、二六歳の成人となった皇太子を、国情が安定しているこの時期に新国王として即位させたのは、父親としての、新たに国王「職」に就く息子に対する最大限の思いやりであろう。

いずれにせよ、この安定した状態が果たしていつまで続くか、今後独立国家としてのブータンがどんな道を歩むか、それは第一には、主権者である国民次第であるが、当然のことながら国家元首としての第五代国王の指導力によるところも大である。その意味で、今後のブータンを予測する上での参考までに、最後に一言、新たに即位した第五代国王のことに触れておきたい。わたしがかれに最初に接したのは皇太子時代であり、タシチヨーゾンを見下ろすデチェンーポダッという幼年・少年僧を収容する僧院の庭掃除および造園作業の時である。それは皇太子が自ら始めたことで、有志を募って数カ月問にわたって行われた。わたしは、それに参加しているブータン人の友人に誘われてある日参加した。手続きも、審査も何もなく、事前に名前を伝えておきさえすれば誰でも参加できるという形式の簡略さにまずは驚いた。

作業をしていると、ボディガード数人を伴って皇太子が車で到着したが、誰一人作業を止めて挨拶することもなかった。仲間が一人加わったといったくらいであり、呆気にとられた。参加者はほとんどがジーンズにTシャツという作業着姿であったのに、皇太子はゴを着ており、何よりも驚いたのは、ボディガードと一緒に土嚢を自分で背負って運び始めたことである。途中ですれ違っても、こちらがことさら道を譲る必要もなく、まったく他の参加者と同じ扱いであった。その日は作業の最後まで残られ、参加者の一人一人にその労をねぎらって帰られた。