2012年12月25日火曜日

「性」に対する考え方への影響

当時世界の覇者たるイギリスは産業革命をなしとげ、続くビクトリア朝時代(一八三七~一九〇一年)には、のちに「ビクトリアンーウーマン」と呼ばれる、典型的な近代型性差別役割分業観による女性像を作り上げていた。すなわち、中流以上の女性は働くことを恥じ、結婚して夫に慎ましくつかえ、子どもに生きがいを見出す生き方こそ、女の幸せの理想像と考えられるようになったのである。

甲斐性のない貧しい男と結婚した女性は、賃金労働者として戸外で働かねばならず、日焼けや肌あれ、手あれなどは、生活力のある男に求婚されなかった(女性的魅力に欠ける)女性に課せられた、不幸な運命の象徴とされた。何よりも生活力があり、ふところの豊かな男が、男らしい男性とされ、そういう男に選んでもらえる「いい女」の条件をそなえようと女性たちはやっきになった。

コルセットによってひどく細めたウエスト(なよやかさを強調)、反対に骨入りペチコートで、ヒップを大きく強調したスカート(出産能力の誇示)、ひたすら貞淑に夫たちにつかえ、ヒステリックな声やどなり声などはタブーであった。「不満」には、卒倒や気絶という表現しか許されていなかった(スティーヴンーカーン著、喜多迅鷹他訳『肉体の文化史』法政大学出版局などにくわしい)。

それらは一七世紀後半から芽生え、一八世紀前半に本格化した「動物の発生」についての議論が、重要な影響を与えていると思われる。顕微鏡の発達や生理学的発生理論の体系化などから、精子と卵子二八二八年、ベアによる哺乳類の卵発見)の性質や受胎における状況などがわかり始めた。精子は男性より出で、女性の体内で活発に動きまわり、他の精子と競争して卵子を獲得するもの、卵子は女性の身体の中でほとんど動かず、静かにじっと精子を待っていて精子に獲得されるものという、あらかたわかった図式は、そのまま短絡的にその持ち主たちに適用された。男性は精子と同様、活発で闘争的で積極的性質を持ち、女性は卵子と同様、静的で受動的で忍耐強い性質を持つもの、いや持つべきものと解釈され、これが男女の「らしさ」へと適用されたのである。

そのうえ、今日では信じられないが、当時ヨーロッパでは、ダーウィンの進化論に強く影響を受けたヘッケルが「個体発生は系統発生をくりかえす」という「反復説」を唱え、それが広く受け入れられていたことも、当時の女性観の形成に深く関係していたと思われる。つまり、近代人は原始の人々より優秀(進化しているから)であるという論法のもと、「成人女性の頭骨は成人男性の頭骨より子どもの頭骨に似ているという形態学上の事実」と「子どもは生ける原始人であるから成人女性もそうにちがいない」(スティーブン・TJ・グールド著『系統発生と個体発生』工作舎)という推論は、女性は男性より劣った存在であることの根拠となった。

日本における性はかくすべきものという現代の考え方は、明治の西欧化政策以来のものである。肌身は人目にさらすべきではなくなり、上半身裸をさらし、片肌ぬいで労働するのが当たり前であった男性たちは、夏でも着物の袖に手を通さねばならなくなり、ゆるくまといつけて、乳房がみえかくれしていた女性の身体も、きっちり着物の衿もとを合わせ、胸高にかびがしめられるようになった。もちろん混浴も禁止された。