2013年12月25日水曜日

教会法は二つの基準

女性は永遠の未成年であり、法的に無能力かつ無責任だとされるにいたる。それにもかかわらず、頑迷で悪辣な魔女には、十全な責任が課されたし、また魔女を告発する場合には、女性の証言はいつでも有効であった。魔女の妖術は、それほど特別な犯罪であった。つぎに、教会法をみてみよう。中世では教会が絶大な権力と権威をもっていたから、教会法は世俗の法律にまさるともおとらない重要性をもっていた。そして教会法は、しばしば世俗の法律に対立した。女性の権利に関してもそうである。

教会法は、キリスト教の根本義にてらして、女性は人格、キリストによる賄罪、聖性の三点において男性と平等であるという。これはまさに福音書の精神にもとづくものである。イエスも使徒も福音書では完全な平等を呼びかけているから。教会法は、このように男女の根本的平等を述べるが、それに矛盾するようなことも多く規定している。つまり前章の女性観で述べたかの不平等説を、教会法学者も神学者らと共有しているのである。十二世紀の代表的な教会法学者で、『教令集』の編者であるグラチアヌスは、女性は道徳的欠陥があるから劣った不完全な性だとして、理性的な男性に従属させている。また、十四世紀初めの教会法学者、グィドーダーバイシオもそうである。後者は、その『教令のロザリオ』で、ただ男のみが教会の完全メンバーだと断言する。したがって女性には叙品の権能はないという。

結局、教会法には、二つの基準があるのである。目に見えない霊的教会では、男女は平等であるが、地上の可視的な教会では、不平等もやむをえぬとしたのである。したがって、教会法の規定上、女性は聖職につくことができなかった。また、聖務執行中に祭壇にちかづくことができず、聖なる器や布にもさわれない。これは、修道女であってもそうである。処女、寡婦、そして妻 さて、教会法は、女性の生のありかたを三つに区別する。すなわち、聖なる処女、結婚している者(妻)、そして寡婦、この三つである。この三者は、法的に区別されて、また階層化している。一番高い位置にあるのが、神に一生身をささげた聖なる処女である。

二番目に救いにちかいのが、寡婦である。寡婦のなかに立二つの区別がある。ひとつは再婚する者、つぎに貞潔の誓いをたてた寡婦、そして最後に再婚しないが、べつに誓いをたてるわけでもないただの寡婦である。再婚は、教会法的につねに合法であったが、それは貞潔に反しているということであまりよい目でみられず、ときに償いの業を課されたり、再婚時に婚姻の祝福をあたえられなかったりという制裁をくだされた。

再婚をあきらめ、典礼儀式にのっとって貞潔の誓いをした寡婦は、霊的に特別の高い地位を手にした。他方、ただの寡婦は哀れな人間として教会の保護をうけた。最後に妻についてみてみよう。教会法によると、結婚生活においては男女平等である。義務も権利も別れる原因も平等で、十二世紀半ばからは、娘は父の同意なく結婚できた。それにもかかわらず、結婚している女性は、教会法によると、処女や寡婦よりいっそう劣った地位を救済史のなかに占めている。したがって、一般の女性は、世俗の法に比べて教会法ではずっと低い地位しかあたえられていなかったといえるだろう。