2015年7月10日金曜日

非エリートが果たした芸術の独立

彼は今も「オリンピック中の北京は屋台もマッサージ店も出稼ぎ労働者もみな締め出して、活気に欠けるニセ(椴的)の北京だ」と話す。《眼我学》に通底するのも大国化を目指して勇ましい言葉を吐く表の中国に対する「瑕的」の感覚であろう。彼のアトリエは草場地という市内北東部の五環道路の外、すなわち郊外にある。村の半分が画廊やアトリエの密集するアート街、もう半分が郊外の農村出身のタクシー運転手や自動車部品工場で働く出稼ぎ労働者の集落となっている。アンバランスな取り合わせにも思えるが、北京の郊外にはこのような混在が至る所にある。混在と言えば、王慶松の経歴もそうだ。1966年生まれである彼が現代アートと出会ったのは20歳すぎと遅い。幼少時からずっと湖北省の山奥の油田で育った彼は23歳まで油田採掘の労働者だった。山奥の油田など情報も限られ、アートとは無縁の思春期だった。教育レベルも低く、小学2年生で8以上の数字を数えられない有様であった。

ただし、彼には今に通じるきっかけがあった。中学を卒業した頃に美術教師を通じて美術が好きになったこと。そして、農村出身の純朴な青年にありかちな働くことで社会貢献する夢が、社会に出て、コネの方が仕事ぶりよりも評価される職場によって幻滅と化した、社会に対する「椴的」の記憶である。彼の故郷は貧しかったが、父親が病気がちだったために彼の家はことに貧しく、学校でも馬鹿にされるほどだった。それでもなんとか高校に通い、家計を支えるべく油田労働者になったが、職場環境に幻滅してまじめに働くことが馬鹿らしくなった彼は苦学して重慶にある四川美術学院になんとか合格、卒業していったん就職したものの、北京で芸術村が形成されていると聞き、何も考えずに北京にやって来た。

それからの3~4年はほぼ無収入で、食堂から賞味期限切れの麺をもらっては飢えをしのぎ、友人だちからの借金で家賃を払った。ぼくが彼と出会ったのはその頃で、当時の彼は写真を用いたコラージュ作品を手がけていたが、フイルム代の捻出にさえも苦労していた。何者でもない貧乏人の彼が今のように台頭するとは想像もしていなかったが、その頃のぼくにしたところで、定職に付かず、今で言うニードの典型のような放浪青年だった。中国で文化人・知識人やメディア関係者の集会に出ると、肩書きのない人間は見向きもされない。日本以上にそうである気がする。そんな中で芸術村の彼らがぼくを受け入れてくれたのは、似た境遇だったからにほかならない。《希望之光》(2007年)は五輪をテーマにしているが、北京オリンピックの華々しさはどこにもない。薄汚れた身なりの家族が眼の前の太陽に希望を見出して歩んでいるが、歩くのはぬかるんだ泥道で、後方に忘れ去られた五つの輪が捨てられたように水溜まりに沈んでいる。

子どもだけが冷静で前の太陽でなく、朽ち果てた五輪を見つめる。いろんな解釈ができるが、いずれにせよ官方のメディアでは取り上げられ得ない作品であるし、生まれてこの方都会で美術しかやったことのない正統の文化人には作り出せぬ主張がある。90年代、出稼ぎ労働者の大群を「盲流」と言ったが、地方出身の貧しい若者が大半を占める芸術村の面々も「盲流芸術家」と言われたりした。この形容は擲楡だが、的を射ている。彼らと出稼ぎ労働者に共通するもの。それは、一般の老百姓のごとく国の言う通りにおとなしく生きても浮かばれないとの諦観に似た処世観、そして、官方から離れてでも自らの理想の人生を実現していこうとする行動力である。

北京に来てからの彼は収入こそなかったものの、次第に欧米のアート界で注目されるようになる。多様な読みが可能な批評性を持つ一連の作品は評価が高く、次第に生活に困らないだけの収入が得られるようになった。贅沢な生活を始めてもよかったが、そうはせずに、今度は何万元もの費用を投じて映画製作所を借り切って撮影の作品をてがけ、いっそう注目されるようになった。王慶松ほど極端でなくとも、北京で活躍する現代アート作家は非エリートの青年期を送った地方出身者が圧倒的に多い。特に人気作家が集中する60年代生まれにその傾向が顕著である。芸術村を築いたのも60年代生まれである。彼らの圧倒的多数が非エリートの地方出身者だったこと。不思議な現象に思えるが、理由は単純である。彼らがもしエリートだったら芸術村など作らずに官方の芸術界に進んだだろうし、彼らが台頭した90年代は官方の芸術界が保守化の傾向を強め、そこから脱け出た彼らの個人的な表現が欧米の美術界から注目され、その延長線上に中国現代アートの市場的成功があるからである。