2015年12月10日木曜日

窮余の一策の電報

これには主人も困ったが、何もしていない幸之助をやめさせるわけにもいかないということで、結局、その店員をやめさせることになった。ところが、それからあとの店の空気がガラッと変わってよくなった。気分的に明朗になり、引き締まった。意図してやったことではなかったが、幸之助が自分の信ずるところを訴えたことが、店の改革につながったのである。明治時代も後半になると、街の様子は激しく変わっていく。ガス灯やランプが電灯に替わり、古い商家がこわされて新しい洋風建築が立ち並ぶ。丁稚や職人に替わって、工場労働者やサラリーマンが増える。交通機関も、乗合馬車から電車に替わる。大阪の街にも明治三十六年、市電が走った。

明るい電灯のついた洋風建築の立ち並ぶ大通りを多数の乗客を乗せて走る電車を見て、幸之助の心は動いた。「今の自転車店での仕事にはこれといって特に不満はない。しかし、新しい電気の仕事をしてみたい」幸之助は大阪市内に住んでいる姉夫婦を訪ね、自分の考えを打ち明けて、義兄に大阪電灯会社への就職の世話を依頼した。しかし、六年間何かと世話になってきた店である。長いあいだ寝食を共にした仲間もいることを思うと、愛着があり、なつかしさがあり、「お暇を頂戴したい」のひと言がなかなか言い出せない。その一方で早く店を出て電灯会社へ替わりたい気持ちが日に日につのってくる。そこで、窮余の一策で一計を案じた。

「ハハ、キトク」人に頼んでこう電報を打ってもらった。主人はこう言ってくれた。「お母さんが病気で心配だろう。ここ四、五日、落ち着きがないようだが、万一店をやめたいとでも考えているのなら、正直に話しなさい。六年も勤めてくれたのだから、どうしてもというのなら暇をあげよう」しかし、幸之助はこの主人の思いやりある言葉に「そうです」とは答えられなかった。心ではすまないと詫びながら着替え一枚を持って店を出て、それきり帰らなかった。しばらくたってからお詫びと、暇をもらいたい旨を手紙で伝えたのである。

幸之助が十五歳のときのことである。やおれは運が強いぞ幸之助は、十五歳のとき、町を走る市電を見て電気事業にひかれ、六年近く勤めた五代自転車商会をやめた。そして大阪電灯会社への入社を志願するが、欠員が出るまでの三ヵ月間、セメント会社で臨時運搬工として働くことになった。その間の出来事である。幸之助は毎日、大阪築港の桟橋から船に乗って仕事場に通っていた。夏のころであったが、ある日、帰りに船べりに腰かけていると、一人の船員が幸之助の前を通ろうとして足を滑らせた。その拍子に幸之助に抱きついたので、二人はそのまま、まっさかさまに海に落ちてしまったのである。

びっくりした幸之助は、もがきにもがいてようやく水面に顔を出したが、船はすでに遠くへ行ってしまっている。ご」のまま沈んでしまうのか”不安が頭をよぎった。が、ともかく夢中でハタハタやっているうちに、事故に気づいた船が戻ってきてようやく引き上げてくれた。人々が夏でよかった。冬だったら助からなかったろうと、幸之助は自分の運の強さを感じた。また、こんなこともあった。松下電気器具製作所を始めたばかりの大正八年ごろ、自転車に部品を積んで運んでいたとき、四つ辻で自動車と衝突したのである。五メートルも飛ばされ、気づいたときには電車道に放り出されていた。そこへちょうど電車が来た。やられると目をつぶったが、電車は急ブレーキをかけ幸之助のすぐ手前で止まった。部品はあちこちに散乱し、自転車はめちゃめちゃにこわれたが、幸之助はかすり傷一つ負わなかった。