2014年8月14日木曜日

イタリアを改革する二度目のチャンス

イタリアでは、あたかも違った部族であるかのように、左翼と右翼の政党は深刻に対立している。これは同国において、共産主義者が残した強い影響力によるものである。すなわち一九六〇年代に、ソ連が一部、資金援助を行ったこと、さらに一九七〇年代や八〇年代初期に、都市ゲリラがイタリアを根底から揺さぶったことに起因している。二つ目の重要な相違点は、財政問題にある。一九九〇年代に景気停滞があったものの、日本では真の経済危機はなかった。しかし一九九〇年代末に、日本政府は改革を行わなければ経済危機に襲われるという、厳しい現実に直面したのである。

当時、政府の財政赤字は膨大な水準に達していた。ピーク時にはGDP(国内総生産)のほぼ八%にも上り、アメリカのジョージーブッシュ大統領が、厳しく批判された財政赤字額の倍以上たった。しかも全般的な公的債務は、GDPの二〇〇%にも達しようとしていた。結論ははっきりしていた。なんらかの手を打だなければならなかったのである。そこで橋本政権は、財政赤字を縮小するために、公共支出を削減し、さらに小泉政権下では政府機関を民営化し、その権限を縮小したのだ。その例が住宅金融公庫や日本道路公団、それに日本郵政公社である。

その一方、イタリアでは一九九〇年代に民営化はほとんど行われず、最近に至っては皆無である。二〇〇一年から二〇〇六年の在任中、ベルルスコーニ氏は人気を博するために減税し、公共事業の支出を増やしたので、財政赤字は大幅に増加した。イギリスの言い習わしに、「お金がものを言う」というのがあるが、最近はイタリアよりも、日本のほうにこれがよく当てはまるようだ。

日本での改革は、財政上の必要性から行われたのであり、変革を求める実際の社会や政治的要請からなされたのではなかった。しかし果たして同様なことが、イタリアでも実行可能だろうか。二〇〇六年、ベルルスコーニ氏の後を継いで、新内閣を率いたロマーノプローディ氏は、中道左派政党に属し、EU(欧州連合)の行政執行機関である欧州委員会の委員長を務めたが、財政改革を強く望んだものの、財政赤字をGDPの四・五%から二%に削減した以外は成功を見なかった。

ベルルスコーニ氏が復帰したからには、国を改革する二度目のチャンスが訪れている。彼もまた、今や厳格な財政緊縮を続けると言明している。ベルルスコーニ氏は、政権を去った後に、おそらく日本の勉強をしていたに違いない。