2015年4月10日金曜日

沖縄的心情批判の例

彼は、さらにこれを敷折していう。自分に食べ物を与えてくれる者を主人として仰ぐことは、権力追従主義、事大主義に通じるとされ、沖縄的心情批判の例としてしばしば取り上げられたことわざであるが、〈物をくれる人〉とは?むしろ民政の安定に心を配る主権者の意であり、古代中国の放伐(徳を失った君主を追放すること)という、一種の民主革命の肯定と解釈される。沖永良部島では〈食ましゅしど我が御主〉という。たしかにこの古来のことわざは、時によって、また人によって、肯定的に解する場合もあれば否定的に捉える場合もある。それどころか、伊波普猷のような琉球史の大家でさえ、肯定的に捉える一方で、否定的に解している時もあって必ずしも一定していない。

伊波普猷は、このことわざについて「わが沖縄の歴史」という論考の中で、AB二人の人物を登場させて、らぎのように語らせている。「A 沖縄という所は所謂「枯れ国」(引用者注 資源の乏しい貧乏な国)ですから、農政に力を用うるということが、国王たる資格の一になっていました。ところが至って貧弱な国柄のことで、農業ばかりでは到底食っていけないから、自然外国貿易をやらなければならないようになっていました。こういうようなことをして、人民の生活を豊富にしてくれる国王のことを、昔はうにがようあまようなすきみ」といっていました。これは世並の訃しきにかえす君ということで、『おもろさうし』の巾にある言葉です。「食呉ゆ者ど我が御主」という僅諺と殆ど同じ意味の言葉ではありますまいか。

B そうすると、あなたは「食呉ゆ者ど我が御主」という僅諺をい意味に解されるのですか。A そうです。この僅諺は今日(引用者注 大正一〇年代)では事大主義的の悪い意味に使われていますが、「背に腹はかえられぬ」という日本の理諺と同じ意味のもので、沖縄史の真相を解しない人にはわかり忙くいかも知れません」(現代仮名遣いに改めて引用)よりよく生きたいと願う心ところが、伊波は、別の「食呉ゆ者ど我が御主の真意義」という論考では、この僅諺ほど曲解されたものはない、この僅諺は、現今の沖縄(大正四年頃)では、極端な事大主義者の套語になっているが、初めてこれをいい出した人は、どういう心持ちでいい出したのであろう、と反問し、つぎのような内容を述べている。

琉球国初代の王舜天の孫の義本が即位した翌年(五〇年)に琉球では大飢饉があり、さらにその翌年、疫病が流行して人民が半ば死んだので、人々は神意をなだめるために、祭壇を設けて義本を犠牲に供することにした。ところが急に雨が降って火が消え、義本は助かった。しかし彼は、人びとの主君になる資格がないということを自覚して、数年の後、王位を英祖に譲って自らは行方をくらました。英祖はもと浦添の豪農で、農政にくわしい人であった。彼が君臨すると間もなく、沖縄は黄金時代を迎え、人民の生活は豊かになり、世は平和と安楽の時代となる。

ところが、彼の四代後の一三一四年に即位した玉城王は暗愚。長い間の安楽と平和の結果、人口が多くなり、人びとの間に対立や衝突が生じ、やがて三山時代と称される同胞相食む戦乱の時代となる。その結果、属島の貢船なども後を絶ち、せっかく発達した交通貿易も頓挫するにいたった。あげく玉城王の子西威の時になり、南北の二山による強い圧力もあって、中山の国政は衰退し、民心は当時最も徳望のあった浦添の察度に帰した。察度は、日本の商船が鉄塊を積んで牧港に寄港すると、鉄塊をすべて買い取って農具をつくって農民に与えたといわれている。こうして彼は、次第に人望を得て、ついに推されて中山王となる。