2016年4月11日月曜日

インドネシア独立運動

一九四〇年代後半のインドネシア独立の頃には、多くの北スラウェシのキリスト教徒がオランダ植民地政府の兵士として徴用される一方、南スラウェシ等では反オランダ闘争が活発化した。独立後、インドネシア政府は、留学経験をもつ学者であるサムラトゥランギ(独立英雄の一人とされる)など北スラウェシ出身者を重用する一方、南スラウェシの土着貴族出身の政治家を活用しなかったため、両者間の対立感情が尾を引いた。一九五〇年代後半には、プルメスタと呼ばれる反中央政府運動が南スラウェシや北スラウェシで起こったが、イスラーム国家樹立を志向した南スラウェシ(カハルームザッカルという指導者がいた。その子息たちがイスラーム法の適用を求める運動を現在も続けている)と中央政府にコプラ輸出利権を奪われたことに反抗した北スラウェシとでは、めざす方向性は異なった。

スハルト体制下において、中央政府は便宜上、スラウェシ四州を一つの行政単位と見なし、地域開発政策上の指導を行なってきたが、内実は四州が各々中央政府と接触するのが一般的であった。公共交通機関の運行許可や資源開発などをめぐって四州間で利害対立が起こることもたびたびだった。このように、スラウェシは一つの島でありながら、地域としての一体感をもったことは実はなかったといえるのである。スラウェシ全州の州知事の間で初めて地域間協力協定が締結されたのは一九九八年九月一五日であった。この協定では農林業、商工業、観光、運輸、人材育成などの分野での協力、協力作業部会の設立、南スラウェシ州の州都マカッサルにおけるスラウェシ地域開発共同事務局の設置、などの項目が合意された。しかし、協定が締結された後、具体的な動きは出てこなかった。

2016年3月10日木曜日

文化大革命の初期によく見られた光景

四人組の一人である王洪文たちが、上海市の党委員会に対する造反アピールを出しだのは、一九六七年一月五日である。私たちはその前日に北京から上海に到着したのだが、外国人を政治的混乱に巻き込むことを心配してか、文化大革命取材記者団は、一日だけ急逡杭州に移された。私はそこで失敗をやらかしたのである。

文革をよそに、私たちは西湖で舟遊びをしてくださいということになって、私か小さなボートぐらいの舟に足をかけたところ、舟が大きく傾いた。あわてて舟べりにしがみついたが、体の半分は水につかってしまった。その時、私は「カメラを落とした」と叫んだ。

読売新聞の記者がそれを周囲の人に通訳したところ、一人の男性が黒山の人だかりのなかから現れ、ズボンを脱ぎはじめた。水中に入って、カメラを取ってくるというのである。岸には薄氷がはっていたが、彼はかまわずに二三歩足を湖中に踏み入れた。その時、私は、カメラはひょっとしてオーバーのポケットに入れていたかなと思い返し、探ってみると、そこにあったのである。「カメラがあった」と、また私は叫んだ。

私のそそかっしさのために、その人に悪いことをしたと、私はすっかり恐縮したが、彼は岸に戻り、「よかった、よかった」と言ってくれた。私は申し訳ないやら、嬉しいやらで、彼の両手をしっかりと握った。取材記者団の団長である編集委員は感動して、日本から持参した万年筆をお礼に進呈しようとしたところ、彼は頑として受け取らなかった。「中国の労働者は外国人が困っているのを、助けないわけにはいかない」と言うのである。

文化大革命の初期には、こうした人間像が少なからず存在していたのである。ベトナム戦争が中国に波及してくるかもしれないという緊張感と、そういう時代だからこそ、官僚化した党幹部は批判されるべきだという解放感、そして解放区の歴史に学んで、人民は人民に奉仕しなければならないという道徳観とがかさなりあって、民衆のなかに流れていると、私には受け取れた。

その民衆の思いや自由な行動が、一定の政治的方向に劉少奇をはじめとする党内実権派の打倒に収斂されはじめた。文化大革命は初期の新鮮さを失い、権力の亡者が民衆を引き回し、文革の狂信者が知識人や少々豊かな人たちを迫害するという状況が、あちこちに発生した。それから一〇年後、一九七六年の秋に、ふたたび中国を訪れた時にも、私は民衆のデモの行列を見かけたが、それには初期のような熱気は全く感じられなかった。命令されたままに、いやいや歩いているという感じだった。一〇年前に私を助けようとしてくれた人間像は、どこにも見当たらなかった。

2016年2月10日水曜日

辞職の理由

国会の本会議、委員会でも数は重要である。本会議では三分の一、委員会では過半数の議員の出席(定足数)を得た上で、過半数により決し、可否同数の場合は、議長、委員長が決する。法案は委員会の審議を経て、本会議での討論採決となるから、ここでも多数を制しているか否かが重要である(もっとも議事日程を決める議事運営委員会は、慣例上全会一致である)。

会派という国会内の組織も、政党そのものである場合と、いくつかの政党(ミニ政党を含む)や無所属議員から構成される寄り合い所帯の場合があるが、会派が注目されるのは、国会審議の段取りなどを決める際に重要になる委員長などの選任が、会派の所属議員数に比例して行われるからである。

いくっかの政党の所属議員が一つの会派としてまとまれば、それぞれの政党が単独で会派を届け出た時よりも、国会審議などに与える影響力は大きい。つまり所属議員数が多数であればあるほど、多数決ルールでは有利にゲームを展開できる。こうして各政党は多数派を目指すゲームに励むのである。

はじめに、六年間の政治権力の流れを追っておこう。「私は今しがた、連立与党党首代表者会議、臨時閣議で総理職を辞する旨を申し上げ、了承いただいた。昨年八月に就任以来、自民党政権下でなし得なかったいくっかの改革をなしとげ、わが国の将来に向けた懸案についても年内にとりまとめ、あるいは道筋をつけることができたことは望外の喜びで、国民の理解と協力に感謝申し上げる」一九九四年四月八日、就任後八ヶ月、あまりに唐突な印象を世間に与えた川首相辞任の記者会見は、このような冒頭の挨拶ではしまった。

辞職の理由としてあげた多くは、かねて細川を悩ましていた金銭スキャンダルにまっわるものであった。佐川急便グループからの一億円の借り入れは政治資金規正法にのっとり適正に処理し、義父に渡ったNTT株も基本的に問題はないが、それとは別に、個人の資産運用について法的問題が明らかとなったために、道義的責任を負わなければならないというのである。

2016年1月13日水曜日

新ユダヤ教たる共産主義は「権力闘争」に満ちている

マルクスの打ち立てた新ユダヤ教たる共産主義は「権力闘争」に満ちていて、秘密警察による監視と血の粛清の嵐で人民を恐怖に陥れ、「労働貴族」という支配階級を生み出したという点では連合戦争神と同型であったが、キリスト教の愛の精神のような、むき出しの権力闘争の弊害をカバーする心理社会的装置を持だなかった。ために、人民は疑心暗鬼が生むストレスによって疲弊し、その結果社会は活力を失い、ついには崩壊したのである。

共産主義は悪平等だから人々は働く意欲を失い、ために崩壊したとの説が一般的であるが、私はそれに加えてむき出しの「権力闘争」の持つマイナス面をコントロールできなかったことも共産主義崩壊の大きな原因だと考えている。

身近なところでは、フェミニズムもまた立派な権力闘争である。ファミリーの語源は「奴隷」という意味である。西欧の要塞文明では社会では男、家庭では父親の権力が絶対で、古代ローマ時代には父親は妻や子どもを奴隷として売り飛ばすことさえできたのである。この男性優位文明で男に対する権力闘争を挑んだのがフェミニズムなのである。

湾岸戦争ではアメリカは三万人の女性兵士がいたが、彼女たちはみな後方勤務であった。それを不服として女性たちは裁判を起こし、今日のアメリカ軍は戦争になればもっとも死傷率の高い海兵隊にも女性兵士がいる。

実際、二〇〇〇年十月にイエメンで起きたアメリカの駆逐艦に対するテロ攻撃では女性兵士が二名「戦死」している。今日ではイギリス軍もドイツ軍も前線で戦う女性兵士を認めている。

「権力闘争」の源泉は昔から軍事力、経済力、情報力と相場が決まっていた。だから、女性もまた経済力を握り、社会で高い地位についただけでは「権力闘争」に真に勝利したことにはならないのである。

女もまた軍事力を握り、いざ戦争となれば女も男に伍して戦う、ということにならなければ、原理的に男との権力闘争に勝利したことにはならないのである。

だから、女性兵士の後方勤務は「差別だ」ということになるわけで、このこと一つ取ってみても、フェミニズムが女による男に対する権力闘争だということがわかるであろう。

かつてのサッチャー女史を見れば、将来アメリカでも女性大統領が女性国防長官と戦争の指揮を取る、といった話も夢物語ではないのである。