四人組の一人である王洪文たちが、上海市の党委員会に対する造反アピールを出しだのは、一九六七年一月五日である。私たちはその前日に北京から上海に到着したのだが、外国人を政治的混乱に巻き込むことを心配してか、文化大革命取材記者団は、一日だけ急逡杭州に移された。私はそこで失敗をやらかしたのである。
文革をよそに、私たちは西湖で舟遊びをしてくださいということになって、私か小さなボートぐらいの舟に足をかけたところ、舟が大きく傾いた。あわてて舟べりにしがみついたが、体の半分は水につかってしまった。その時、私は「カメラを落とした」と叫んだ。
読売新聞の記者がそれを周囲の人に通訳したところ、一人の男性が黒山の人だかりのなかから現れ、ズボンを脱ぎはじめた。水中に入って、カメラを取ってくるというのである。岸には薄氷がはっていたが、彼はかまわずに二三歩足を湖中に踏み入れた。その時、私は、カメラはひょっとしてオーバーのポケットに入れていたかなと思い返し、探ってみると、そこにあったのである。「カメラがあった」と、また私は叫んだ。
私のそそかっしさのために、その人に悪いことをしたと、私はすっかり恐縮したが、彼は岸に戻り、「よかった、よかった」と言ってくれた。私は申し訳ないやら、嬉しいやらで、彼の両手をしっかりと握った。取材記者団の団長である編集委員は感動して、日本から持参した万年筆をお礼に進呈しようとしたところ、彼は頑として受け取らなかった。「中国の労働者は外国人が困っているのを、助けないわけにはいかない」と言うのである。
文化大革命の初期には、こうした人間像が少なからず存在していたのである。ベトナム戦争が中国に波及してくるかもしれないという緊張感と、そういう時代だからこそ、官僚化した党幹部は批判されるべきだという解放感、そして解放区の歴史に学んで、人民は人民に奉仕しなければならないという道徳観とがかさなりあって、民衆のなかに流れていると、私には受け取れた。
その民衆の思いや自由な行動が、一定の政治的方向に劉少奇をはじめとする党内実権派の打倒に収斂されはじめた。文化大革命は初期の新鮮さを失い、権力の亡者が民衆を引き回し、文革の狂信者が知識人や少々豊かな人たちを迫害するという状況が、あちこちに発生した。それから一〇年後、一九七六年の秋に、ふたたび中国を訪れた時にも、私は民衆のデモの行列を見かけたが、それには初期のような熱気は全く感じられなかった。命令されたままに、いやいや歩いているという感じだった。一〇年前に私を助けようとしてくれた人間像は、どこにも見当たらなかった。
2016年3月10日木曜日
2016年2月10日水曜日
辞職の理由
国会の本会議、委員会でも数は重要である。本会議では三分の一、委員会では過半数の議員の出席(定足数)を得た上で、過半数により決し、可否同数の場合は、議長、委員長が決する。法案は委員会の審議を経て、本会議での討論採決となるから、ここでも多数を制しているか否かが重要である(もっとも議事日程を決める議事運営委員会は、慣例上全会一致である)。
会派という国会内の組織も、政党そのものである場合と、いくつかの政党(ミニ政党を含む)や無所属議員から構成される寄り合い所帯の場合があるが、会派が注目されるのは、国会審議の段取りなどを決める際に重要になる委員長などの選任が、会派の所属議員数に比例して行われるからである。
いくっかの政党の所属議員が一つの会派としてまとまれば、それぞれの政党が単独で会派を届け出た時よりも、国会審議などに与える影響力は大きい。つまり所属議員数が多数であればあるほど、多数決ルールでは有利にゲームを展開できる。こうして各政党は多数派を目指すゲームに励むのである。
はじめに、六年間の政治権力の流れを追っておこう。「私は今しがた、連立与党党首代表者会議、臨時閣議で総理職を辞する旨を申し上げ、了承いただいた。昨年八月に就任以来、自民党政権下でなし得なかったいくっかの改革をなしとげ、わが国の将来に向けた懸案についても年内にとりまとめ、あるいは道筋をつけることができたことは望外の喜びで、国民の理解と協力に感謝申し上げる」一九九四年四月八日、就任後八ヶ月、あまりに唐突な印象を世間に与えた川首相辞任の記者会見は、このような冒頭の挨拶ではしまった。
辞職の理由としてあげた多くは、かねて細川を悩ましていた金銭スキャンダルにまっわるものであった。佐川急便グループからの一億円の借り入れは政治資金規正法にのっとり適正に処理し、義父に渡ったNTT株も基本的に問題はないが、それとは別に、個人の資産運用について法的問題が明らかとなったために、道義的責任を負わなければならないというのである。
会派という国会内の組織も、政党そのものである場合と、いくつかの政党(ミニ政党を含む)や無所属議員から構成される寄り合い所帯の場合があるが、会派が注目されるのは、国会審議の段取りなどを決める際に重要になる委員長などの選任が、会派の所属議員数に比例して行われるからである。
いくっかの政党の所属議員が一つの会派としてまとまれば、それぞれの政党が単独で会派を届け出た時よりも、国会審議などに与える影響力は大きい。つまり所属議員数が多数であればあるほど、多数決ルールでは有利にゲームを展開できる。こうして各政党は多数派を目指すゲームに励むのである。
はじめに、六年間の政治権力の流れを追っておこう。「私は今しがた、連立与党党首代表者会議、臨時閣議で総理職を辞する旨を申し上げ、了承いただいた。昨年八月に就任以来、自民党政権下でなし得なかったいくっかの改革をなしとげ、わが国の将来に向けた懸案についても年内にとりまとめ、あるいは道筋をつけることができたことは望外の喜びで、国民の理解と協力に感謝申し上げる」一九九四年四月八日、就任後八ヶ月、あまりに唐突な印象を世間に与えた川首相辞任の記者会見は、このような冒頭の挨拶ではしまった。
辞職の理由としてあげた多くは、かねて細川を悩ましていた金銭スキャンダルにまっわるものであった。佐川急便グループからの一億円の借り入れは政治資金規正法にのっとり適正に処理し、義父に渡ったNTT株も基本的に問題はないが、それとは別に、個人の資産運用について法的問題が明らかとなったために、道義的責任を負わなければならないというのである。
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